団長Pの推さば推せ!引かば推せ推せ!!

元応援団長が東京で飲食業をやりながら大好きなものをひたすら推しまくるブログ

勢いと根性にまみれた紆余曲折のプロフィール

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どうもまいど!

六角人@団長P(@rokkaku_danchop)でございます。

まわりのみんなからは「六角さん」なんて呼ばれている、大阪生まれ大阪育ち東京仕事の34歳日本男児です。(2017年7月現在)

 

なんで六角人【ロッカクジン】なんですか?

まずはこちらの写真をご覧ください。

 

 

上京してから髪型を坊主にしました。

理由はお金もかからないし、楽だから。

そしたら、友達から言われた一言。

 

「え、お前の顔面、六角形じゃね(笑)」

 

東京人ってなんて失礼なやつなんだと思いましたね、その時は。

なめとったらアカンぞ!っつって。

でも、鏡で自分の姿を見たら本当に六角形でした。

髪の毛がある時は頭の形が出てなかったので気付かなかったんですねー。

それ以来、「六角さん」のあだ名が定着。

顔と名前が一致しているので皆様の記憶に残りやすいという特徴を得ました。

この顔で生まれてよかったな!

 

ブログ「団長Pの推さば推せ!引かば推せ推せ!」について

まだ髪がある大学時代。

応援団に入って、4回生の時に団長をやらせていただきました。

就職を機に、東京に出てきて11年。

現在は飲食業やりながら、大好きなモノをひたすら推しまくる。

 

「推し=応援」

 

一生青春一生応援団を体現し続けるために立ち上げたのがこのブログです。

略して「推さ推せ(オサオセ)」とでも呼んでください!

 

登場人物紹介1「団長P」

「団長P」

突如、誕生した六角人の仮の姿。ブログの化身。

応援が趣味であり仕事であり人生である。

「団長P」の「P」には「Passion」「Power」「Peace」「Pleasure」「Possitive」「Panties」など様々な意味があるとされるが、たんにノリで付けたという説も捨てがたい。

ボケ担当。

 

登場人物紹介2「フジモト」

「フジモト」

団長Pの無茶ぶりや無理難題に振り回される存在。

オタク気質なところがあり、サブカル的な分野においては団長Pを上回る知識量と行動力を誇る。

名前の由来は六角人が昔、助けた犬のことだという説が濃厚。

ツッコミ担当。

 

六角人の簡単な経歴

1983年(昭和58年)大阪府泉佐野市で代々続く農家の長男として生まれる。

野山を駆け回って遊びつつ、地元の保育所、小学校、中学校に通う。

サッカー、野球、空手などスポーツを転々とする。

パソコン、ネット(ダイヤル回線)、ラジオ、漫画、ゲームに出会い、サブカル方面に傾倒し始める。

高校で始めての市外へ電車通学。

アルバイトを始め、その資金を元にギター弾いたり、演劇やったり、アカペラやったり。

大学試験に失敗し、1年浪人。

関西の私立大学に入学。

入学式当日に勢いで応援団に入団。

卒業後、東京進出。

映画製作の夢を追って、映像制作プロダクションに入社。

3年で転職し、飲食業界参入。

六本木で店長になる。(←今ここ!)

 

 好きなもの、趣味とか

・うまいメシ(甲殻類と貝類以外)

・うまい酒(甘いの以外)

・筋トレ(ジム、自転車)

・スポーツ観戦(学生野球、アメリカンフットボール)

・大学応援団観戦(大学応援団出身)

・弾丸旅行(国内限定)

・音楽(ビートボックス、パーカッション、バンド)

・サブカル(本、映画、漫画、アニメ、ももクロ)

・伝統芸能(落語、歌舞伎、祭)

・日本史(中世文学専攻)

 

さらに細かい経歴

生まれた頃(1983年)

よく覚えてない。

大阪市内の病院で生まれて、父方の家である大阪府泉佐野市に移った模様。

とにかく、大阪のイメージを打ち壊すようなド田舎で育ちました。

 

 

新たなる出会いの小学校時代(1990年〜1996年)

地元の小学校に入学。

同級生が6人、全校生徒合わせても40人弱という、少人数教育システム!

全員名前分かるし、何なら家知ってるし、家族ともよく会うし。

べったべたの村社会コミュニティが当たり前の世界観でした。

 

学校以外行くところがないので、6年間無欠席の健康優良児っぷり。

冬でも半袖、最高!

 

課外授業で農業体験をやった時は、普段実家の手伝いで身に付けた農家スキルをフルに発揮し、先生よりも的確に作業をこなしておりました。

農業っておもしろいなっと思うようになったのも、この頃の経験が大きいです。

 

小学校高学年になった頃。

それまで外で走り回っていた少年に転機が。

「ドラゴンボール」と「ファミコン」

この2つとの出会いにより、漫画読んだりゲームやったりっていう、家に引きこもり系の遊びにハマるようになりました。

 

そして、小学校卒業を間近に控えた2月某日、その後の人生を決定付ける事件が起こります。

「新世紀エヴァンゲリオン」

 

アニメってすげえええぇぇぇ!

 

オタクの才能が芽生えた瞬間でした。

 

混沌の中学校時代(1996年〜1999年)

1993年にJリーグが開幕したこともあり、小学校では地元のサッカークラブに所属。

なんとなくしっかりこなかったので、中学では野球部に入りました。

ポジションはセカンド。

打てない守れないちょっと走れるの三拍子のおかげで安定の補欠生活。

結局、1年で辞めてしまいました。

 

ボク、球技、苦手や!

 

クラブを辞めて空いた時間は、オタク活動に費やされることとなりました。

当時は夕方6時から7時はアニメ放送枠。

学校が終わると即帰宅。

アニメ見ながら夕飯を食べて、漫画読みながら声優がパーソナリティを務めるラジオを聞き、深夜アニメをチェックするというのが平日のスケジュールでした。

 

ゲームボーイ、ファミコン、スーパーファミコン、プレイステーションとハードの進化とともにゲームオタクとしても深化。

ゲームは1日1時間という高橋名人の教えを破って、休日は10時間を越えるハードワークをこなすようになっていました。

 

学校の方はというと、週2回の塾通いの効果もあってか、成績上位を維持。

先生からの推薦もあって、生徒会長を1年間やったりもしていました。

教育熱心な母上も結果さえ出ていれば特に文句も言わなかったので、「学校では優等生」「家ではオタク」という二面性を持ったまま過ごしていました。

 

90年代後半に入ると、ISDNが急速に普及し始め、家庭でも気軽にインターネットに接続できるようにまりました。

そんな中、ついに我が家にもパソコンが。

パソコンとネットを手に入れたことで、インターネットという混沌の海に飛び出すこととなったのです。

 

ネットは広大だわ。

 

自作のHPを開設し、文章やイラストを公開し始めたのもこの頃。

今まで消費するだけだったのが、自ら生み出すことのおもしろさに気付いたのでした。

肥大化する自我と万能感により、見事中二病を発症。

いまだに治る見込みはありません。

 

中学3年生の時にドラゴンボールの影響でアクション映画にハマり、ブルース・リーに憧れて、極真空手に入門。

世間でもK-1がテレビ放送されるようになり、格闘技ブームが始まった頃でした。

 

自宅の倉庫にサンドバックを導入して、修行を重ねる日々。

制服の下に重りを付けて学校に通うという、亀仙流の修行法も取り入れ技を磨きました。

得意技はショートレンジからの上段回し蹴り。

ガードの下からでもアゴを打ち抜けるので、体格差のある相手にはかなり有効です。

 

中学3年の夏、ラジオから流れてきたゆずの「夏色」を聞いて本格的に音楽に興味を持つようになりました。

 

ギターかっこいいなあああぁぁぁ!

 

こじらせた高校時代(1999年〜2002年)

学校では優等生だったので、内申点がめちゃめちゃよかったのもあり、無事第一志望の高校に合格。

地元では1番の進学校でした。

しかし、二次関数でつまづいた当たりから数学の成績が急落。

国語ではトップを取れるのに、数学では最下位。

興味があることしかがんばれないという性格がモロに出るようになりました。

 

原付免許を取得し、一気に行動範囲が広がりました。

ケンタッキーでアルバイトも始め、今まで親に依存していた収入と移動の自由がある程度自分でコントロールできるように。

 

中学から培ってきた表現欲求が開花。

高校ではクラブには入らず、バイトで貯めたお金を使って、ギターと演劇を始めました。

ひとりで弾き語りやったり、同級生とバンド組んだり、アカペラやったり、エキストラでドラマや舞台に出たり。

作詞作曲やシナリオを書き始めたのもこの頃。

人見知りなくせに、人前に出て自分をさらけ出すことに快感を覚えるという矛盾したひねくれ具合。

 

当時、最もリスペクとしていたのは長渕剛でした。

傷まみれの青春!

 

高校を3年の頃には、将来は今までやってきたことをすべて生かして、監督、演出、脚本、主演、音楽、編集をやれる映画制作を仕事にしようと思い始めたのでした。

 

汗と涙の大学時代(2003年〜2007年)

一浪した後、大阪の私立大学に進学。 

本当は映像の専門学校に行こうと思っていたのですが、地元の先輩の影響もあって大学進学に決めました。

なるべく映画に近い分野ということで、文学部国文学科を選択。

 

映画研究部に入って自主制作をしたり、大学生っぽい遊びをしまくる予定が入学式の日に応援団に勧誘されそのまま入団。

我ながらその場のノリと勢いは恐ろしい。

のっけから予想外の展開で大学生活はスタートしました。

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何も分からないまま、ただひたすら声を張り上げ続けた1回生。

まわりの友達はキラキラしたキャンパスライフを謳歌している中、汗と涙でドロドロの日々を送っていました。

 

あれ、なんのために大学入ったんやっけ?

そんなことを考える余裕もないくらいに毎日が怒涛のように過ぎていきます。

気がつけば、大学というより、応援団に通っている状態に。

応援団活動の合間に授業に出るような感覚でした。

 

なんとか1年間を乗り切ったところでふと気づいたこと。

そうやった、ボク、映画やりたいんやった。

 

我に返ったボクは先輩に退部の意思を伝えました。

しかしながら、応援団は入ったら最後。

なかなか辞めさせてもらえません。

だって、人数少ないからね。

1人でもやめると、冗談じゃなく存亡の危機になったりするのです。

 

結局、2回生に上がる直前に無断で練習を休みまくりました。

このまま自然消滅的に辞めてしまおう。

これでやっとやりたかったことができると意気込んでいたら、当時好きだった子から飲み会の誘いがありました。

 

もちろん、すぐに予定を合わせて2人で飲みにいきました。

毎日汗まみれの男とばっかりしゃべっていたので、女の子とお酒が飲めるなんて最高です。

 

なんかやっと普通の大学生っぽくなってきたな!

 

いい感じに酔っ払って、そろそろ別の店に行こうかーなんて流れになりました。

お会計を済ませて店の外に出るとそこには見覚えのある顔が。

 

学ラン姿の先輩方が笑顔でこちらを見ておられました。

ボクの単純な思考などすべてお見通しだったというわけです。

 

ハ、ハメられた!

 

見事に捕獲。

そして応援団行きつけのいつもの飲み屋へ連行。

薄れゆく意識の中で思いました。

 

ああ、やめるのやめよう。

 

応援団に本気になる

先輩方の献身的な指導もあり、無事2回生になることができました。

単純なので切り替えも早いです。

やるとなったらとことんやってやろうと、今まで以上に応援団活動に熱を入れるようになりました。

少しずつがんばりも認められ、夏には旗手を務めさせていただくことに。

 

参考写真:関西四私立大学応援団連盟 

まあね、見ていただいたら分かると思うんですけど、団旗ってめっちゃ重いんですよ。

特に風が吹いた時なんかは、もう、ね。

しかしながら、団旗は団の象徴であり学校の顔。

団旗を落とすことは応援団にとって最大級の不祥事とされるので、何があろうと平然と2〜3時間は立ち続けなければなりません。

 

始めのうちは試合後、全身がバキバキになる程、強烈な筋肉痛に襲われていました。

皆様にひとつアドバイスするとすれば、台風の日に団旗をあげてはいけません。

死にます。

 

そしてついに、4回生で団長の大役を拝命致しました。

団長になって決めていたことは、とにかく行ける限りの応援に行きまくろうということ。

 

応援団というと体育会系の試合を応援しているイメージが強いですが、大学には文化会や研究会、サークルなどいろんな団体がいろんな活動をしています。

そこに勝負している人がいるのなら、応援団がいないでどうするんか。

っちゅう感じで、愛用の学ランをひるがえして、あらゆる場所に出没していました。

 

結果的に、日本国内だけでなく団史上初のオリンピック海外応援を決行。

 

「応援」という信念一本で、国境や人種、世代を超えて思いを伝えることができる応援団という活動にどっぷりハマりすぎた4年間でした。

 

東京進出時代(2007年〜2009年)

就職にあたって、改めて人生を考え直し、やっぱり映画の仕事をすることに決めました。

大学4回生の7月から就活を始めたのですが、慢性的な人材不足業界のおかげもあり2週間で採用が決定。

東京に進出することとなりました。

 

東京には親族は誰もおらず、まさに未開の地。

初めての一人暮らしは東京都国分寺市の安アパートからスタートでした。

 

念願の映像業界に入ったものの、アニメ制作会社だったため、始めのうちはゲームやテレビの映像作品を作っていました。

制作進行というADみたいな職業で、主な業務は金と時間と人の管理。

映像制作に関するあらゆるセクションを走り回る毎日。

 

代表作というか、1番長く携わったのがこの作品です。

昔、ゲームユーザーとしてプレイしまくっていた、テイルズオブシリーズにまさか自分がたずさわることになるとは。

なんか感動。

この頃は映像業界にありがちな不規則勤務。

給料は低かったし、体力的にもハードでしたが、念願の映像制作にどっぷり浸かれてホンマおもしろかったなぁ。

 

制作3年目でついに劇場作品を担当。

企画から全国公開までやりきることができました。

映画館でスタッフロールに流れてくる自分の名前を見た瞬間の感動はいまだに忘れられません。

自分もたいがいオタクだと思っていましたが、映像業界には自分なんか足下にも及ばないようなオタクの神様みたいな人たちがいっぱい。

「ファーストガンダムを見たことない」というと「非国民!!」とののしられていたボクでしたが、3年ですっかり業界人でしたねぇ。

 

東京飲食時代(2009年〜現在) 

念願の映画制作を達成したボクでしたが、結果的に転職をすることに。

理由は燃え尽き症候群ってやつですかね。

肉体的にキツかったというのも正直あります。

 

転職先は前々から興味のあった飲食業界にしました。

寿司屋のアルバイトから始まり、店舗異動で焼肉屋に。

肉好きとしては趣味と仕事が一致した瞬間でした。

 

今まで飲食店でのアルバイト経験はありましたが、本格的な調理や接客は初めて。

中途採用で入ったので、年下の先輩や鬼のような仏の先輩に飲食の基礎から徹底的に教え込まれました。

おかげで魚は3枚におろせないのに、牛は筋肉の解体までできるようになりました。

 

六本木のど真ん中で泣きながら土下座する 

働いていたのは東京六本木にある高級焼肉店。

新しい職場にも慣れ、厨房でも仕入れから仕込み、調理まで一通り任せていただけるようになりました。

 

一度ハマるととことんやってしまう性格はここでも健在。

肉塊を眺めてはどれだけキレイに切れるか研究していました。

 

売上も伸びていたし、自分の切った肉をVIPな方々に召し上がっていただけていることに喜びと自信も感じていました。

そんなある日、新しく異動してきた店長にこう言われました。

 

「お前の仕事はさ、肉切ることじゃないでしょ?」

 

言っている意味がわかりません。

だって、焼肉屋なんだから、肉切るのが仕事に決まってるやん。

それからもことあるごとに新店長から注意を受けました。

僕は口ではわかったような返事をしながら、それまで通りの毎日。

 

ついに飲み会の席でボクは店長に食ってかかります。

 

こんなにやってるのに、なんで言われなあかんのですか!

 

今まで店を守ってきたという自負もあったし、異動してきたばかりの人に何がわかるんだっていう気持ちでした。

 

「本当にお客様のこと見て仕事やってんの?」

 

店長が指摘していたのは技術云々のことではなく、仕事に対するスタンスの話でした。

ボクはそれをまったく理解できてなかった。

 

毎日毎日肉を切りまくっていれば誰だって技術は上がります。

でもいつの間にか、肉のことしか見てなかった。

ホールスタッフがとってきた注文通りの肉を盛り付けて出す。

言われるままに作業をこなしているだけでは機械と変わりません。

 

お客様のことなんか全然見れてなかった。

最高級の肉を使って、キチンとした接客ができればそらお客様は喜んでくださるよね。

ただ、そこにボクの意思は何も入っていない。

駒として与えられた役割をこなしているだけ。

 

店長が指摘していたのは、そんな目の前のことしか見てない人間が、さも自分が店のすべてを動かしているような気になっていること。

つまり、調子に乗ってたんですね。

 

肉のことさえちゃんとやっていれば、怒られることもない。

けど、お店をやるってことは、料理だけでなく、接客や内装、スタッフ同士の連携など総合的なチーム戦なわけです。

そして最終目標はお客様に喜んでいただくこと。

 

ボクはそのほんの一部を担当していただけに過ぎない。

それなのに誰よりやっている感を出してた。 

ひとりだけではドリンクすらまともに作れなかったのに。

 

「お前さ、明日から来なくていいよ」

 

そこまで言われてやっとボクは自分の現状を理解しました。

 

自分はまだ何も仕事のことをわかってなかった。

ただのアホで無力なヤツだった。

 

電車乗ろうとしている先輩に追いすがって必死に謝りました。

どうしていいかわからなかったから、とにかく謝りました。

このままで終わるのだけは嫌だ!

 

たぶん、まわりから見ると惨めな姿だったと思います。

ボクは最終的に地べたに頭を擦り付けて叫んでいました。

 

もう1回やらせてください!

 

勝手にすれば、と言い残し店長は去っていきました。

 

ボクが本当に意味で仕事について考えるようになったのはこの日からでした。

今までのただなんとなく与えられた作業をこなすことから少しずつ

「誰のためにやるのか?」

「何のためにやるのか?」

意味を考えるようになりました。

 

自分だけの力で生きてきたと思い込んでいた人間が、自分ひとりでは何もできないことに気づき始めました。

 

いまのこと(再び応援団)

ドン底を味わったボクですが、結果的にはよかったです。

改めて、日々の仕事をやりながら、自分という人間と本気で向き合う時間を取るようになりました。

 

その時、ボクの心の支えになっていたのも、応援団でした。

 

気合いと本気の応援で世界を熱くする

我武者羅応援団


我武者羅應援團 大團歌

 

仕事が応援というプロ応援団集団。

応援対象はこの世界のすべて。

 

ひょんな出会いから、ボクは大学までと決めていた応援団を続けることになりました。

 

代々木公園でストリートライブならぬ、ストリート応援で道行く人を応援しまくったり、イベントに参加して演舞を披露したり、初日の出にエールを送ったり。

とにかく、ありとあらゆるものを応援しました。

 

大学で母校しか応援したことがなかったボクにとっては、こんなに自由な応援があっていいんだと気付かされると同時に、応援に無限の可能性を確信しました。

 

我武者羅応援団は少しずつ活動の幅を広げて、フランスで行われたジャパンエキスポ参加や、NHK紅白歌合戦出演など、仕事をしているだけでは絶対に味わえない体験をさせてもらいました。

 

フランスのセーヌ川が今も流れているのはボクの応援のおかげかもしれません。

 

現在はチームとしての応援団活動は基本的にやっていません。

しかし、もはや応援が血肉と化しているボクにとっては応援はライフワークみたいなもん。

偶然入った応援団でしたが、運命の出会いだったようです。

 

応援の形ってひとつじゃないんですよ。

 

応援団で目の前の人に「がんばれ!」って叫ぶのも応援。

映像業界で映画を作って観客を感動させるのも応援。

飲食業界で料理を提供してお客様においしく召し上がっていただくのも応援。

 

いろんなことをやってきていますが、目指すところは「応援」という一言に集約されます。

ボクにとって応援とは「誰かの心を揺さぶり、元気になってもらうこと」

 

目の前の人を元気に。

不思議なことに、自分の応援でまわりの人が元気になる程、自分も元気になれるんです。

応援って、最強のコミュニケーション。

 

「ボクのやりたいことは仕事を通して誰かを応援すること」

自分の中で軸が定まったおかげで、普段の仕事もやりやすくなりました。

 

これまでいろんな人に迷惑をかけてしまったけど、今では店長をやらせてもらっています。

「店長」になったけどあだ名は今も「団長」です。

 

これからのこと

大阪のド田舎で20年。

東京の大都会で10年。

 

自分なりに導き出した人生の答えがあります。

「本当に自分が欲しいものは自分で作り出すしかない」

 

親が人生を決めてくれるわけでもないし、会社が一生面倒見てくれるわけでもない。

もし今後、結婚したとしてパートナーを得たとしても、最終的に自分の人生は自分で何とかするしかない。

 

何かに頼っている時点で、それはもう100%自分の意思では生きられなくなる。

それってなんか嫌だし怖いことだなって思うようになりました。

だから、これからは自分がやりたいことをとことんやれるような環境を作ります。

 

場所は地元故郷である、大阪府泉佐野市。

東京で住んでいるボクから見ると、いいものがいっぱいあるのにほとんど誰も手をつけていない宝のような土地です。

2018年で東京からは一旦離れる予定です。

 

「飲食を極めることは人生を最高に楽しむこと」

こいつをテーマにやってやります。

 

具体的には

1.代々続けてきた野菜と米の栽培

2.果樹栽培で観光農園の立ち上げ

3.実家を地産地消古民家カフェに改装

4.田舎の親戚の家的なノリのゲストハウス

5.食を通しての地域コミュニティ活性化

 

今まで自分が経験してきたことを全部突っ込んだらこんな感じになりました。

 

一生応援団

今年で34歳になりましたが、今更わかったことがあります。

 

それは、ボクは凡人だってこと。

いやむしろ、同年代の平均的な社会人と比べると中の下ぐらいです。

 

人より抜きん出て優れている特技があるわけでもないし、何かの才能に恵まれているわけでもない。

胴は長いし、手足は短い。顔は六角形やし。

自分がなかなかうまくできないことを他の人がさらっとやってしまうのを見て、凹んでしまうことも少なくありません。

高校生ぐらいの時は自分は選ばれし人間だと思ってましたが、どうやら違うみたいです。

 

だからって、凡人が何かをあきらめる理由にはならない。

凡人は凡人らしく、これからもまわりに迷惑かけまくって、足掻き続けるしかない。

少なくとも自分のできることぐらいは誠実に全力で取り組む。

それだけ。

 

ひとつ自慢できることがあるとすれば、今まで生きてきて人の出会いだけには恵まれてきました。

どんな困難な状況になったとしても、不思議と自分を導いてくれる人が現れてボクを救ってくれた。

もしも誰かがピンチの時は、今度はボクがいつでも応援に駆けつける、そんな人間でありたい。

 

自分のやりたいことだけでなく、まわりの人の夢も応援しまくって、日本を元気にする!

 

それが一生応援団として生きていくボクの使命です。

 

長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

今後ともよろしくお願いします!!

 

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